自由に生きることと、衝動のままに生きることは違う。
感情のコントロールができなければ、苦しむのは常に自分だ。
常に平静であり、ストレスは正面から自分で受け止め、目の前のことに没頭する。
そういうひとに、わたしはなりたい。
自由に生きることと、衝動のままに生きることは違う。
感情のコントロールができなければ、苦しむのは常に自分だ。
常に平静であり、ストレスは正面から自分で受け止め、目の前のことに没頭する。
そういうひとに、わたしはなりたい。
美味(おい)しんぼの料理本 (ビッグコミックス スペシャル)
一人暮らしをしていて外食を繰り返していると、とにかく野菜が足りない。ちゃんと考えて外食しろよと言ったってしょうがない。そう簡単にはいかない。で、やっぱ野菜をちゃんととるには自炊だろと、家で料理をする気になっている。
実は、自炊入門者向けの本で、おれのバイブルになっている本は別にあるのだが、今回は衝動で買ってしまった「美味(おい)しんぼの料理本 (ビッグコミックス スペシャル)」を紹介。
表紙やタイトルから想像つくと思うけど、マンガ「美味しんぼ」に登場した料理取り上げたレシピ本で、お惣菜に的を絞って編集したものらしい。美味しんぼ好きにはたまらない本。美味しんぼを読んでいて「うまそー」「誰かおれに食わせてくれ」と、いつも思い続けていたのだが、自分で作るための本が発売されてしまった。マンガを読んでいる限り、とても個人では作れそうもない料理が多いのだけど、この本に載っている料理はどうにか作れそうなものがそろっている。一番簡単なのは「目玉焼き丼」(むかし作ったことがある。なんてことないがうまい)。
ただこの本、調味料や食材の細かい分量は書いていない。だから、山岡さんたちが作っていた料理と全く同じものは多分作れない。<<お惣菜は家庭の味なのだから、自分好みの味に仕立てて貰うために、敢えてそうした。>> らしい。賛否両論はあるだろうが、調味料にしても食材にしてもマンガの中ほど完璧にそろえることはどーせ無理なので、まあありだろうとは思った。
とりあえず、自分で試せそうなものから試してみた。「肉野菜炒め」と「にんにくスープ」。女優になった彼女の頭から離れなかった中華料理屋の主人の「肉野菜炒め」と、力をつけるために間違ったにんにくの食べ方を続けた野球選手の体調を回復させた「にんにくスープ」だ。
まあ、あまり料理の得意ではないおれだが、今まで自分で作った料理に比べると格段にうまく作れた気がする。思い入れの力はすごい。
浪人時代、図書館に行くといつも美味しんぼを読んでいた(もちろん勉強の息抜きで)。その頃にはまりにはまり、その後もずっと読み続けていた。おれの料理に関するうんちくはほとんど美味しんぼの受け売りだ。まあ、あまりにたくさんの調味料が登場するので、それぞれの味がよくわからないおれにはたいしたことは言えないけど・・・
この本に登場する料理とそのエピソードはほとんど記憶にあった・・・ 美味しんぼファンにはおすすめ。
自分が望みさえすれば、成長しようとすることをやめなければ、柔軟に吸収しつづけることを止めなければ、人は前に進むことができる。そう信じたい。だから、人生のすべては過程でしかなく、人生に結果なんかひとつもない。常にどこか未熟で、どこかが人より優れている。それは、性別も年齢も人種も住んでいる国も、何ひとつ関係ない。
この世にはいろんな人間がいる。だれかの考えが正しいわけでもなければ、間違っているわけでもないのだろう。物事の正誤など、永久に証明することなんかできない。「歴史が証明する」なんてのもあやしい。
だからこそ、自分以外の人間の考えや存在を、ちゃんと認めなければいけない。他人を憎んだり、恨んだり、罵ったりすることは意味はない。そういう人間もいるということ、それをまず認識しなきゃいけない。相手が未熟なのはしょうがない。どうせ自分もたいした事はない。だから相手を認める。自分の中から排除するのも駄目だ。
結局、やんなきゃいけないことは、みんな一緒になって最善に近い道を選びつづけることだ。完璧はない。でも同じ出来事も二度と起こらない。傾向と対策も大事だけど、それを信じて考えることをやめてはいけない。でもこれは、ものすごーくめんどくさい。。。
でもこれをやらずにいることは、結局は相手を認めていないことで、相手を自分の中から排除してしまっていることになる。排除の延長上にあるのが戦争であり・・・ 人間の業だな。
みんながほしいのは幸せで、金をはじめとするその他のものは全部おまけだ。みんなが幸せになりたい。
宗教や思想、国、集団・・・ 何かによりかかるのは簡単だが、現実逃避になりがちだし、手間のかかることはやめたくなる。結論を無理矢理出して解決するのはごく一部で、その外側にはより大きな歪が生まれる。
だから考えなきゃいけない。完全な結論は出ない。その都度、先をみすえて必死で考える。悲観的にならず、前向きに。弱肉強食は人間にあてはめたくないよな。。。
とりあえずは、身近なところから考えてみるのがいいのだろう。小さいものが実現できなきゃ、どーせなにもできない。
「東京に来てからの方が庭は広かった。」
久々に帰った実家で母親が言ったセリフだ。名言。確かにそうだ。
それは両親にとってではなく、おれら子供にとってのこと。車の入ってこれない迷路のような路地は、子供の頃の最高の遊び場で、家のまわりはそんなんばかりだった。楽しくてしょうがなかった。狭い路地の奥になんかありそうな気がした。ひみつ基地はなかったけど、秘密の抜け道はあった。より細い道に入っていける猫がうらやましかった。
東京の細い路地では、大人よりも子供の方が速く動けたし、多少広い道を走る車は自転車よりも遅かった。小学校まではそんな道をあるいて徒歩5分未満。
東京も悪くない。今住む場所としても、子供が育つ場所としても。
振り返ってみてそう感じた。
高3の冬に受けた全国模試の偏差値は30台だった。30台の偏差値なのに変なプライドだけは持っていて、六大学より下のレベルの大学は受けなかった。当然、合格する大学などなく浪人決定。
浪人が決まったときの目標は「現役で落ちた大学に合格すること」。現役のセンター受験の直後に急に不安感に包まれて、それから4月まで必死に勉強することになる。「予備校が始まるまでに普通のレベルになるんだ・・・」、そう考えて集中して勉強した。
4月の全国模試では、目標としている大学はすべて合格ラインギリギリに達していた。受かるか受からないかわからないくらいの、レベル。肩の力が抜けていくのがよくわかった。「ホッと」してしまったわけだ。
これで何とかなるだろと思ったのを覚えている。
万が一のために受けた滑り止め以外で合格したのは「現役で落ちた大学」だけだった。
あの当時はなんとも思わなかったし結果にも満足していたが、今考えてみると真剣に勉強を始めたときに立てた目標がすべてだったわけだ。4月に安心してしまった後は、それほど成績が伸びるわけでもなく、集中力も格段に落ちていた。偏差値30台の時に決めた予備校だったため、自分の力とまったく合っていなかったせいもあるが、すべては自分のモチベーションの問題だろう。
もちろん、東大合格を目標にしていたら合格していたなどとは言わないが、自分で限界を勝手に決めていて、集中力を目標にあわせて落としていたことも、確かだと思う。まあ、当時は必死だと思っていたけど、入試直前の1月、2月にドラクエ6にはまってた記憶もあるし、映画も10数本見た記憶もあるし、必死では・・・ないよねぇ・・・
人間、目標設定がすべてなのではないかと思う。目標がでかい人間の方が魅力的に見えるし、かっちょええ。目標にたどり着くまで満足はしないし、前に進み続けてる気がする。たぶんそれは半分生き様になっていて、そのまんまその人の魅力に繋がってる。
仕事、プライベート、なんでもかんでも・・・ 高い目標。でも等身大。ゲゲ。
立派な大人になりたい。かっちょええ大人になりたい。
新しいことをやるときに、何を恐れるのか。何を恐れているのか。
ふと考えてみると、下っ端になることの恐怖というか不安感のような気がしてきた。
上という上がいなくなって久しく、先輩面に慣れてしまい、適度に息抜きをすることに慣れてしまったいま、また下っ端に戻れるのか、腰を軽くすることができるのか、全力疾走できるのか。。。
不安になる。
激務へのおそれもある。
忙しいのは当たり前の世界であり、そのなかでの下っ端なら余計に忙しい。
そんな中で、自分を保てるのか。。。
今までの蓄積も、とりあえずゼロになってしまう。
ゼロからの再スタート。いまから間に合うのか。食っていけるのか。
でもそれは、今のままでもさして変わらない。
あれこれ考えながらすごした4年間に、技術的な積み重ねは少ない。
培ったものは社会経験だけなのではないかとさえ思う。
宙ぶらりんの状態から本気で、気を入れて努力するのは、
新しいことをやることと、何が違う?
激務の何を恐れるのか、激務はもともと覚悟していたことではないか。
徹夜も残業ももともと覚悟し、実践もしてきた。
今後、今の世界に居座るならより過酷になる恐れだって十分にある。
何が違う?
下っ端上等。下っ端な能力でできるふりをするよりはずっといい。
自由であるためには実力をつける以外に道はなく、それがない状態で自由を目指せば
混沌としてくるだけだ。その繰り返しは、自分にストレスだけを蓄積させる。
今を見ないで、自分の力を見ないで、なにができる?
おれに力はない。ない力はつけるしかない。
しなきゃいけないのは「覚悟」で、それは何をやっても変わらない。
何を恐れる?
時間がかかったな。。。
家に帰ったときに家族がいつも家族が寝ていたら、家族はいないのと同じだ。
家族の前で常に自分が疲れていたら、家族と一緒にいる意味もない。
家族は自分の救いであって、自分は家族の救いでありたい。
絆が薄れたり、消えてしまうのであれば、それは意味のないことだ。
仕事は自分を表現する上でもっとも大きなものであることには変わりないが、
自分のすべてを犠牲にして捧げるものではない。
仕事で思いっきり笑うのもいい。笑えるような仕事をしたい。
とはいえ、自分が最も見ていたい笑顔。自分が一番笑っていたい場所はどこなのか。
見失うことはしたくない。
その狭間で。バランスとって。
このあいだ、家の近くを歩いていたら、普段開いていることのない消防団のシャッターが開いていた。ポンプ車も外に出ていて、上半身裸の男たちと笑い声。笑顔。笑顔。
詰め所といってもただの倉庫だから、人数の割にはえらく狭いスペースで、シャワーもなく、バケツの水で体を拭いていた。まあたぶん、訓練かなんかを終えた後なんだろう。
なんだかわからないが、えらく爽快な笑顔だった。気持ちがいい、笑顔。。。
最近あまり見かけなくなった笑顔だと思った。
昨日、仕事のために持ってきたノートパソコンは。
会社に着くと動かなくなってた。
買ってから4年になろうとしているAcerのノートパソコン。
家に帰ってからも動かないノートパソコン。
俺がなんかしたのかよ。
前回は修理に出したが、今回はやめようかとも考えてる。
寿命のようにも思えるので。
大して丈夫じゃないのに、けっこハードに使ってたからなぁ。。。
おつかれ。