ときに、忙しすぎたり、浮かれすぎたりすると、おれは少しおかしくなる。本来やるべきことを忘れてしまい、自分の中での優先順位が変わってしまう。言ってみれば暴走だ。
修正するためには力が要る。それも自分の力ではなく外的な力だ。本であったり、他人の言葉だったりするのだが、これらの力によって、ふと我に返り、自分の位置を確かめる。
凡人のおれは、この繰り返しで少しずつ前に進むしかない。
ときに、忙しすぎたり、浮かれすぎたりすると、おれは少しおかしくなる。本来やるべきことを忘れてしまい、自分の中での優先順位が変わってしまう。言ってみれば暴走だ。
修正するためには力が要る。それも自分の力ではなく外的な力だ。本であったり、他人の言葉だったりするのだが、これらの力によって、ふと我に返り、自分の位置を確かめる。
凡人のおれは、この繰り返しで少しずつ前に進むしかない。
長い階段を上りきると、鬱蒼とした木々に囲まれた広場に出る。中央付近には高く伸びた竹が生えており、地面は木のチップで埋められていて、歩くのに心地よい。広場の中央に立って周りを見渡すと人工的な建物が視界に入ることはなく、自分が都会にいることを忘れさせる。はじめて足を踏み入れたときは目を疑った。
日吉の丘公園は、日吉駅から徒歩十分足らずで、慶応義塾普通部の裏あたりにある小さな公園だ。この地区の雑木林を保存するために作られた公園で、もともと生えていた木々を活かすような作りになっているため、余計なものは一切ない。現在もまだ開発中で、完成後にどのような公園になるのかはまだわからない。
慶応義塾大学の日吉キャンパスがあることで有名な日吉だが、学生街だけあって駅前は賑わっている。数多くの飲食店と娯楽施設と東急デパートの入った駅ビル。この地区の駅としてはかなり発達している方だ。
それだけに、この公園を見たときの感動は大きかった。賑わいを見せる駅前と、人気のほとんどない木々に囲まれた公園。この風景の落差がたまらない魅力だった。おれが日吉にすむことを決めた大きな要因の一つでもある。
公園付近には、雑木林や田畑が数多く残っていて、普通の住宅街とは異なった雰囲気を感じさせる。しかし、そのほとんどが私有地であることから、ここ一年の間さえ風景が変わってきてしまった。既に開発されきった街に住んできたおれにとってははじめての体験で、とても寂しい。
日吉の人々の好きな風景を保存するために日吉の丘公園はつくられた。だが、その風景を楽しめる場所が、この公園だけにならないことを願ってやまない。
追記:
検索をかけてみたら、横浜市の公園のページに載っていた。
世界水泳の男子400メートルメドレーリレーで、日本が銅メダルを獲得した。この種目でメダルを獲得したのは1960年のローマ五輪以来で、実に43年ぶりらしい。
この結果をもたらした最大の要因は、今大会の日本の主役である北島康介だろう。彼が絶対的なエースとして存在していることで、「勝てる」という自信が選手たちの頭に刻み込まれ、力の相乗効果を呼んでいる。
絶対的な存在は、存在するだけで力になる。
土用の丑の日にうなぎを食べる風習は、江戸時代に生まれたらしい。
うなぎが夏に売れないことの対策として、平賀源内が「本日土用丑の日」という看板を出し、うなぎ屋を大繁盛させたのが始まりだという説が最も一般的とのこと。
バレンタインデーとたいして変わらない理由なのが悲しいが、飲食店のイベント等で、安くうなぎが食える機会が増える。うなぎ好きの自分としてはうれしい限りだ。
これは、つい最近参加した研修の集合写真だ。
こんな感じの写真を撮るとき、カメラを構えた人を見ながら、
写真の中心をそれぞれが予測して体を寄せ合う。
結果だけ見ると、
「こんなに窮屈に体を寄せ合わなくても大丈夫なのに。。。」と思う。
撮られる側が写真の枠がどこになるのかを知っていたら、
みんな違うポーズをとるのではないだろうか。
そこで将来のカメラ像。
レーザー光線で写真の枠を投影しながら撮影できるカメラ。
被写体が写真の枠を実感できる!!
なんてな。。。
「私に詩を与えてくれたことに感謝している。
才能なんてちっともないけど
詩と私は血みたいなものつながっている」
「壊レタココロ」っていう詩集のあとがきの一節だ。
著者は竹内めぐみ。下北沢の路上で手書きの詩集やデモCDを売っていたらしい。
この本は、帯に書かれた「気取ってんじゃねーよ 誰だっておかしいんだ」っていう手書きのフレーズと、巻末のあとがきを読んだだけで、衝動的に買ってしまった。
詩としての質や、日本語としての美しさは良くわからないが、確かに伝わってくるものがある。
何よりも強く感じたのは、この子は詩を書くことで生を繋いでいるのだということ(今現在は知らんけど)。自分の想いをまっすぐに書き綴ることで、自分を保っているのが伝わってくる。
つまり、自己表現とはこういうものなんだと思う。
小説、詩、絵、音楽。。。
何であっても変わらない。表現することで自分を救っている。
プロの場合は必ずしもそうだとは言えないが。
人は誰でも、自分に合った表現方法を持っていて、見つけられた人は幸運だ。
才能なんて関係ない。自分が満足できればそれでいい。
酒の席では吐きだしきれない感情を表現するための別の方法。
さておれは。。。
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壊レタココロ (竹内めぐみ、2003年ディスカバー21 )
この手のサイトをみると、インターネットの恩恵を強く感じる。
絶版になった本をみんなで投票して復刊してもらうためのサイトなんだけど、だいたい100件くらい投票で、復刊が実現しているようだ。
投票する際に、復刊されたら買うかどうかのアンケートもあるので、復刊する際の売れる目安にもなる。出版社と顧客の利害がちゃんと一致しているので部数が少なくても採算が取れるのだろう。似たようなサイトで、たのみこむがあるが、本に絞っているだけあって、比較的簡単に実現しているように見える。
復刊を望んでいる人は、ほんと心から復刊を望んでいるので、それを実現しているスタッフも、とても情熱的に、そして楽しんでいるようにも見える。買い手の顔がこれだけよく見えるのも、インターネットならではだと思う。
この手の商売は、大もうけをする必要はなく、事業が継続できるだけの儲けさえ出ていればいい。やりがいもあるし、利用者からの大きな支持もあるだろう。
個人的には、他人が復刊を熱望している本を見れるだけでも面白い。
おれの知らない面白い本が、どんどん復刊されてくれることを期待している。
ターミネーター3をオールナイトでみた。
話題作ではあったけど、期待はまったくしていなかったので、それなりに楽しめた。
誰が見ても「普通のアクション映画」として楽しめるのではないかと思う。
ただし、新しいと感じる要素は何もない。
この映画を見ていると、アクション映画はネタ切れなんだと実感する。
背景にあるテーマは多少違うけど、セオリーは何も変わらない。
演出がちょっと派手になる程度だ。
そうすると、今後のアクション映画はどうなるのかというと、シリーズものが多くなるのではないか。
007、チャーリーズエンジェルズ、X-MEN、ミッションインポッシブル、etc。。。
同じようなアクション映画なら、キャラクターに魅力がある映画が強い。
日本の時代劇みたいなもんだね。
ルパン三世の実写版をハリウッドで撮るらしいが、これもそういう意図があるのではないかと思う。
何も考えずに映画を楽しみたいときは確かにある。そんなときのために、この手のシリーズものは、常に何かしら上映してくれていると嬉しい。
日曜日に渋谷のBook1に行ったら、文芸書のエリア(だったかな)で類語辞典が大きく宣伝されていた。
たしか、「類語大辞典」だったと思う。帯には井上ひさしのコメントが書いてあって、とても立派そうに展示されていた。
パラパラとめくってみると、この手の辞書は物書きのためのものだとわかる。表現に詰まったときに類語辞典をめくれば、いい表現が見つかるという按配だ。
今読んでいる本「日本のルールは編集の現場に詰まっていた」の中でも、こう書かれている。
「出版社に入社できたとき、初任給か初めてのボーナスで買うべきものがある。テープレコーダーとカメラ。今ならデジカメだ。パソコンと広辞苑、類語辞典もないなら購入すること。」
。。。プロ必携のアイテムってことだ。
面白そうなので、Webで使える類語辞典がないか探してみたら、簡単に見つかった。
ためしに「超」と入力して検索してみると、同義語は以下のように表示される。
超過|過度
オーバ
オーバー
過ぎる
過度
過分
ハイパ
ハイパー
ウルトラ
スーパー
極端
極度
確かに面白い。
文章を書くときに使えば、表現が洗練されていくかもね。
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日本のルールは編集の現場に詰まっていた (元木昌彦、2003年 p25)
昔から、なんにでもすく感動するし、すぐ影響を受ける。
人があたりまえだと思うようなことに本気で影響を受け、行動も変わる。
映画や本を読んでいても、簡単に泣ける。
「やすあがりな奴だ」と言われたこともある。
映画や本による感動は、他人に作られた感動だ。
だから、それでたくさん泣けたりするのは、他人の感動をたくさん共有できているようで、得した気分になる。
それらの感動は、相当強烈なものじゃないと後に残らないし、本当に稀だ。
たとえ強烈なものであったとしても、自分の体感した感動には遠く及ばない。
でも、かるく泣ける感動は気持ちがよく、その後数日の生活に影響を与える。
ぷち感動。